今夜の京都は五山の送り火です。

お盆の間に滞在したご先祖たちが、山に送り火とともに還っていく日です。

河合隼雄は、16年前の2006年の8月16日の夜に、

まるで死者たちと送り火に誘われるように意識を失い、

その後一度も目を覚ますことなく、

約11ヶ月後に亡くなってしまいました。

だからこの日はいわば第2の命日、

それどころか順序としては第1の命日とも考えられる大切な日です。

 大文字

 妙法

 舟

 

 

8月15日が戦没者追悼式などもある第二次世界大戦の終戦記念日になるために、

われわれの中ではお盆と戦争の犠牲者との間の連想も生まれやすいです。

今年は残念ながらロシアのウクライナ侵略のために多くの死者が出ています。

 

そこで、第二次世界大戦開戦時に中学生だった河合隼雄の戦争体験を振り返ってみましょう。

当時はみなが軍人となって「国のために死ぬ」と言っているなかで、

『河合隼雄自伝』にも書いてあるように、

河合隼雄は死ぬのが怖く、それを誰にも言うことができない。

それを一番上の兄に手紙に書いたところ、

死ぬのが怖いのはあたりまえで、

軍人になることだけが国に尽くすことではないという返事をもらいます。

これは後に陸軍士官学校への推薦を受けたのを断る布石になります。

 

田舎の素朴な愛国少年でありながら、

河合隼雄は軍国主義に疑問を抱く。

学校に軍人が講演に来て、

世界の歴史を見ると侵略者は必ず負け、

いまアメリカがサイパン島を侵略し、

日本も侵略しようとしているが、

侵略者は結局負けていくという。

しかし河合隼雄は、

はじめに中国を侵略したのは日本だから、

これは絶対に負けるに違いない、と考え、

ついには兄の雅雄にそれを話します(『河合隼雄自伝』p77)。

皆が画一的な見方に染まっていても

独自の考えを抱いた河合隼雄、

そしてそれを支えた兄たちが印象的です。

 

軍国主義には染まれなくても、

古来からの死生観には共感したからこそ、

送り火に誘われていったのかもしれません。