今日7月19日は河合隼雄の命日です。
2007年に亡くなったので、今年ではや18年になります。
それにもかかわらず、毎年増刷される『こころの処方箋』や
『ユング心理学入門』をはじめとする有名な著作だけではなくて、
財団のXでそのつどポストしているように多くの著書が版を重ねて、
また新しい読者に河合隼雄の考え方や見方が届いているのはうれしいことです。
中国を中心として、海外でも多くの著作が次々と翻訳されて出版されています。
しかし18年も経つと、残念ながら河合隼雄と親交のあった人たちも亡くなっていきます。
昨年出版された『あなたが子どもだったころ[完全版]』(中公文庫)の中をはじめ、
多くの著作で対談している谷川俊太郎さんも昨年11月に亡くなられました。
そしてこの3月には、男ばかりの河合七人兄弟の最後の一人となっていた、
隼雄のすぐ上の兄河合迪雄が99歳で亡くなりました。
とてもユニークな子どもであったと思われる河合隼雄が成長していくうえで、
兄弟の交流や守りは非常に大きかったと思われます。
それは実際の経験を元にした児童文学『泣き虫ハァちゃん』や
『河合隼雄自伝:未来への記憶』(ともに新潮文庫)でよくうかがい知ることができます。
特に京都大学時代に一緒に下宿していたこともあって、
二つ上の兄・雅雄との話はよく出てきます。
自伝には、第二次世界大戦中に、
隼雄が日本は負けるということを雅雄に話したのに対して、
雅雄は顔色を変えて、絶対に誰にも言ってはいけないと忠告した話が載っています。
その中ですぐ上の兄・迪雄のことは、
今年の誕生日の記事で紹介したユーモアにあふれる
ぞうきん掛けのエピソードを除いてはあまりふれられていない。
むしろ河合雅雄が書いて、映画化もされた
自伝的児童文学『少年動物誌』の方に迪雄はよく登場します。
迪雄は、一昨年出版された『別冊太陽 河合隼雄』の中のインタビューで、
理屈っぽくて、ちょっと憎たらしいような子どもだった隼雄が、
暗い戦争の時代におもしろい子に変わっていったとしています。
そして「戦後の不愉快な時期も、皮肉屋が全部ユーモアに変えていってくれて、
隼雄と雅雄兄と三人寄っては誰かの真似をしたり、架空の物語を考えたり、
面白いこと言って、いつもワーッと笑い転げていました。
ものすごく会話が面白かったね、隼雄は。」と結んでいます。
きっとあの世でも三人で笑い転げて語り合っているのではないでしょうか。